ビールの香りをデザインするために

Shiro Yamada
Mar 24, 2022

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以前こういう記事も書きましたが、弊社のHop Frontierは「科学的なアプローチでホップの香気成分を最大限に引き出す」とか「最新のホップ理論と先進的な醸造手法」という大げさなことを謳っているビールなので、風呂敷を広げた手前いろいろと勉強しています。香りをデザインするのはビールに限らず簡単なことではなく、一朝一夕にできることではないですが、それだけに面白さがあります。今回はこの探求のどこが面白いのかをさっくりとお伝えしたいと思います。

Hop Frontier Juicy IPA

香りの性質を決めるのは分子と言われており、分子レベルで見る必要があります。無機化合物にも匂いがあるものはありますが、人間にとって心地の良い香りの大部分は分子量30から300の間の有機化合物です。そうなると有機化学の中に、香りのデザインに関する多くの答えがありそうですが、そう単純ではありません。有機化合物は構造が複雑だし、醸造工程で変化するし、「これさえ抑えれば大丈夫」というような単純な法則性もあまりなさそうだからです。そして本当に香りをデザインするためには有機化学を越えた別分野の理解も必要になってきます。

変化する有機化合物の処理

DMSの相関図

上はビールのオフフレーバーとして有名なDMS(Dimethyl sulfide)とその前駆体の関係図です。SMM(S-Methylmethionine)に熱が加わるとDMSが分離され、これがこのままビールに残るとオフフレーバーとなります。またDMSが酸化してできるDMSO(Dimethyl sulfoxide)は無臭と言われています。DMSを防ぐには前駆体であるSMMや酸化物であるDMSOの処理が必要になってきます。SMMは熱に弱いので沸点を迎える前に分解されDMSになります。なので煮沸工程でなるべく多くのDMSを飛ばすのが対策の基本です。煮沸工程を過ぎると麦汁は閉じた配管の中に入ってしまうので、DMSを揮発させることが困難になります。煮沸が終わったあとはSMMからDMSを生成するプロセスを抑制すること、つまり麦汁を素早く冷却したり麦汁移送中にケトルの蓋を開けたりする対策が大事になります。ちなみにDMSの沸点が35–41℃なのに対して、DMSOは189℃なので煮沸では飛ばせません。物質の揮発しやすさは分子量や水素結合の有無によって変わりますが、DMSOは非常に揮発しにくい化合物なのです。麦汁中に存在するDMSOは発酵過程で一部がDMSに変わりますが、この過程ではDMSを揮発させるのは困難です。発酵初期に炭酸ガスと一緒に外に出ることはありますが、ビールのスタイルによっては効果が限定的になります。なので麦汁をなるべく酸化させないようにして、DMSOの増加を抑制するコントロールが必要になります。有機化合物は温度や発酵過程で組成が変化するので、コントロールポイントが多く複雑になってしまうのです。(DMS関連のネタ元はMilk the FunkScott Janishです。)

「硫黄は悪臭」というわけではない

ビールによくある硫黄化合物

上はビールでよく見かける4種類の硫黄化合物(硫化水素、DMS、3MH、4MMP)です。硫黄は好ましくない匂いのイメージが強いですが、硫黄化合物だからといって必ずしもオフフレーバーになるわけではありません。そもそも硫黄自体は無臭で、それが炭素と結びついて有機化合物になると不快な臭いとなることがあるということです。中にはDMSOのように無臭のものもあれば、3MH(3-Mercapto hexanol)のように大注目のアロマになることもあります。3MHはバイオトランスフォーメーションによって3MHA(3-mercaptohexyl acetate)となり、グレープフルーツやパッションフルーツのような香りをビールに付加します。4MMP(4-Mercapto-4-methyl-2-pentanone)は、少量だとクロスグリのような好ましい香り、多量だと猫のような動物臭がすると言われています。3MHや4MMPはPolyfunctional Thiorと言われるチオールの一種で、チオール全般が不快な臭気を持つものが多い中で、珍しいとされています。このへんの話はYakima Chief Hopsのこの資料に詳しいです。

官能基だけでは判断できない

ビールの代表的な香気成分

ヒドロキシ基を持っているから必ず良いアロマになることではないし、ベンゼン環を持つ芳香族が必ず良いアロマに結びつくわけでもないです。エステルはスタイルによっては好ましいですが、これも一筋縄ではいかない。官能基を基準に香りをデザインすることは難しいと思います。香りは分子で決まるのですが、特定の官能基が特定の香りと紐付けられているわけではなく、異性体も含めた分子の構造によって一つ一つの香りが決定付けれらます。これは考えるだけでも気が遠くなりますね。

ビールに溶ける成分かどうかも重要=Survivables

有機化学的で香気成分が完全に解明されたとしても、まだハードルがいくつか残ります。その一つがビールに溶ける成分かどうかということです。従来ホップの香気成分と言われていたミルセンとかファルネセン、カリオフレンなどのテルペン類は、ホップに含まれる量は多くても、揮発したり発酵過程で消失したりしてほとんどビールに残らないということが分かってきました。現在は、Survivablesという官能閾値が低く、ビールに溶け込みやすく、醸造工程を経てもビールに残存しやすい香気成分に注目が集まっています。Yakima Chief Hopsはリナロール、ゲラニオールなどのモノテルペンアルコールや、2MIB(2-methylbutyl isobutyrate)などホップ由来エステル、3MHなどのチオールをいくつか厳選してグラフ化した資料をいろんなところで配布しています。この研究はこれからさらに進んでいきそうです。

ホップに含まれるテルペン類

ちなみにアルコール度5%のビールを水95%のエタノール水溶液と考えると、ビールに溶けるためには親水性を持つ必要があるということになります。ヒドロキシ基(-OH)やカルボキシル基(-COOH)などの官能基を持つ化合物は水と馴染みやすいですが、ミルセンやフムレンなどのように炭化水素だけで構成される化合物は馴染みにくい傾向があります。さらに、鎖状構造が長くなったり、環状構造が多くなったりすると疎水性が増すそうです。フムレン、カリオフレン、ファルネセンはいずれもC15H24であり異性体なのですが、炭素数が多く疎水性が高いです。

嗅覚受容体vsGC-MS、匂いを感じる仕組みへの挑戦

もう一つの大きなハードルは匂い感じる仕組みがまだすべては解明されていないことです。人間は、嗅覚受容体が香気成分と反応して、その変化を脳が感知することで匂いを識別しているそうです。ウェーバー・フェヒナーの法則では「人間の感覚の大きさは、受ける刺激の強さの対数に比例する」としています。つまり香気成分の質量が2倍になっても、知覚する香りの強さは2倍にはなりません。また、4MMPの例のように少量の場合と多量の場合で感じる匂いの性質が変わる例もあります。ビールの代表的なオフフレーバーのDMSも少量の場合はクリームコーンの匂い、多量になると磯の匂いと表現されることが多いです。GC-MSを使えば香気成分の量は分かりますが、それがそのまま人の知覚とは一致しないので、科学的に定量的に知覚を判定するのが難しいということです。また、匂いの感じ方に個人差がある原因は、嗅覚受容体だけではなく、匂いの情報を処理する脳の仕組みも関係します。つまり、脳がどうやって情報を処理するかまでを解明しないと、科学で香りのデザインを解明することができないということです。考えただけでも難しいですね。

今回の投稿のネタ元の多くは、『「香り」の科学』という書籍です。この本に限らず、講談社ブルーバックスの本は目から鱗の面白いものが多くておすすめです。

そしてHop Frontierも引き続きよろしくお願いいたします。造るたびに美味くなっている、、、はず^^。限定のHop Frontier New England IPAも好評です。

Hop Frontier New England IPA

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Shiro Yamada

ビール、蒸留酒 Far Yeast Brewing株式会社 代表取締役 https://faryeast.com/